あるある 参加者のポジション
前回あげた哲学カフェでは、二人の参加者に少し触れた。
テーマの本流に、理論的に終始あがらった人。自らの心情をよく語った人。この二人がいて、おもしろいものとなった。もちろん、それは二人がいなかったらおもしろくならなかったという意味ではない。たまたま、今回では二人の投げかけが軸となって、他の参加者の話も回転していたからだ。
二人は対照的に見えて共通している点がある。
1,一般的な知識も、個人的な感情の発生という事実も、思考の素材として投げ入れられることを了解できる。
2,テーマへの追求に思弁的な努力を重ねあえる。
実際のところ、「距離ではなく力」と言い続けた人が、本気でそう確信していたかどうかわかる由はない。特にその人は哲学カフェのプロみたいな人なので、意識的にポジションを取っていたようでもある。参加者が考えるきっかけを振るい起こすには、そういう存在というか方法があったほうがうまくいく。
哲学は問いの連続で、対話中は疑問、質問こそが大事という。しかし必ずしも疑問形で終わる意見でなくとも良い。一般的な知識も異論も反論も心情の吐露も、問いと同じく「投げかけ」である。問いになりうるかは、実は他の参加者にかかっている。
バレーボールに例えると、強烈なスパイクもあれば、的確なレシーブのようなものもある。しかし、すべては自陣へ飛んできたボールなのだ。思わず手が出るようなボール、手を出したいがまともに触れられるのか逡巡するような変化球、沈思黙考を強いるようなスローボール、それらが行き合うことで立ちのぼるのは、ボール(テーマ)の新たな見え方と、自分の姿も映り込んだ、今を生きる人間の有り様に他ならない。