哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

今日の哲学対話「気候正義ってどんな正義?」

オンラインにて「社会と自分」という大テーマの中の一つとして開催。どちらかというと「社会」よりも「自分」を考えるためにやっているところはあって、そのために参加条件として斎藤幸平氏のあげた記事を読んでもらっていた。日本人には、それまでの自分の臆見を捨てて大きく変わるような「学び捨て」の態度が足らないという趣旨が書かれてある。環境や政治的、経済的状況という外部の情報よりも、自分ごととして意識に降りかかるものを扱い合えないか、という思いだったが、なかなかそこは難しいなと感じた。そもそも自らつけたタイトルは外向きの視点なのだから、これはもう自分に責任がある。

参加者の中には、実際に再生エネルギーの事業に携わった人もいたのだが、自説を押し付けるのではなく、考える材料として話題を投げ込んでくれた。

予定時間を過ぎてからも雑談のようなのが続いて、その中で70年代頃のエネルギー問題の話が出た。あの頃の計算では石油は今頃とうに枯渇しているはずだったのだ。

映画の話は出なかったが、近未来のディストピア作品の変遷を考えると、その当時の問題意識みたいなものが垣間見える。

先の70年代頃のは、ほんとに怖かった。「ソイレント・グリーン」「赤ちゃんよ永遠に」とか。子供心にちょっとしたトラウマになったんじゃなかろうか。それが80年代近くになってくると、マッドマックスみたいにノーテンキなドタバタに変わってくる。何もなくなった荒廃した世界で、何でモヒカン野郎が大量のガソリンを消費しながらバイクを乗り回してるのか?なんなら、その髪の毛のポマードさえ、どこにも売ってねえぞ!とツッコんではいけなくなってしまったのだ。

最近は再び環境悪化を厳しく描くようになりつつ、テーマはその中でより両極化していく格差みたいなものになりがちなのだな。

映画会社は人々の見たくなるものを知っている。むしろ、人々の見たいものを、先回りして作っているとも言える。一見良心的な素振りをしたものこそ、大企業が喧伝するSDGsのように警戒すべき相手ではあるのだろう。