哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

一日で教育二題続き

「日本の教育には何が足らないのか?」という、ビッグプロジェクトっぽいというか、朝ナマ的というか、市井の哲学対話ではあまり拾わないお題で、主催進行の人もやや危惧しながら始めたと、後の雑談でも話されていたが、こんなんも、たまには参加してみるとおもしろい。

なんとなく、以下の大きく二つの潮流が出ていたが、主には2についての時間が長かった。

1.グローバル社会への対応努力が欠けている。具体的には、英語(外国語)、金融(お金の)教育が要る。

2.知識、情報以外のもの。想像(創造)力のように自発的な力。前知識という表現もあった。

1と2の違いは、前回の話で取り上げた「教えられるもの」とそうでないものに近い。

理由は多少違えど、批判的思考の能力向上が必要と大体の人が考えていたが、実際はもっと基本的なロジカルシンキング強化も先に必要ではないかと、個人的には思う。まあ、世界基準で低いわけでは無いらしいが、このままで良しとなるとかなり危うい。これは確実に教えられるものなので、工夫次第で向上可能だろう。(国の愚民政策でわざと力を入れていないという話は置く)

クリティカル(批判的)に物事の前提から考えるような作業は、対話型授業などでおこなうことになる。一応最近の指導要領なんかには、「答えのない問題に挑む時間」も加わってきていて、実際に哲学対話の導入は、徐々に増えてはいる。だがしかし、そこでのあり方にこそ、私は日本の教育の問題を感じるのだ。というのは対話授業が導入されるに当たって、教育者側を悩ませているのは、評価方法だという。ヒョウカ?はあ?って思うのは、多分私だけでなく教職者の中にもゴマンといるだろう(そう願っている)特に前々から、自主的に哲学対話を取り入れていた先生にとってみれば、却って困った事態になったと頭を抱えてても無理はない。

「評価」には軸となる判断基準が必要となる。思考の行き先に多くの可能性を確保しなければならない場所で、判断基準に合わせようとする努力をさせるなら、それは「教えられるもの」の範囲から、さして出ないものとなる。

「評価はしません」と宣言されても、先生の顔色をうかがってしまうことがあるのだから、いっそ知らない誰かに進行やってもらった方が良いのではないか。そのためには、もっと市井の人の中で対話が流行る必要があるのだが、なかなか進まぬのである、これが。ていうか、現段階だと、私が時々あげつらっているような、「困った人」が進行役をかってでて、一生ものの損失を与えかねない。対話教育に評価は要らぬが、進行役には評価がたぶん必要になるはずだ。大学で哲学を教えているような人でも、アレっていうことあるし。自分のことも言えたものではないんだけどね。