哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

一日で教育二題

たまたま教育に関する哲学カフェを、同じ日の午前に対面式で、夜にオンラインで参加するという経験をした。

午前は「教えられることと、教えられないこと」

「教える」という意味を、「伝える」に近く限定するか、「教育」まで拡大するかで、方向性が変わってしまう。あえてその差に目を向けないと、考えが深まらない。

限定したときに「教えられないもの」として出てくるのは、自由、自発性、独創性など、個を源泉に発生されるものと、感性、クオリアのように、個人が広義の経験によって感得する他ないものだ。これは「教える」ものでなく「育つ」「育(はぐく)まれる」ものとなる。夜のオンライン対話のテーマは「日本の教育に足らないものは何か」だったが、おおかたの人が、この部分に注目をしていた。

教育関係者である進行役は、この「育つ」ベクトルも、社会の要求から誘導されたものになることへ、何かしらの問いを期待していた節がある。「誰かれも殴りかかる自由」や「家に火をつけまわる才能」の実現を避けるべきは自明としても、自らの外に出る前の意志の幅が、外からの力で制限されることへの懸念を持っているかのようであった。(だいぶニュワンスが違っているかもしれないが、今の私の解釈である)

なるほど、これは哲学対話で使われるルールに通じるものがある。私は使用を避けていると書いた「何を言ってもいい」と同じだ。https://toehatae78.hatenablog.com/entry/2022/11/20/121938

最大最多の可能性から得られる選択こそ良しとする考えもあるかもしれない。しかし、これはある種空想上の可能性であり、他者に知る由もなく、「言う必要もない」類のものとなる。

対して参加者の一人が「書道ではどんな書体も基本無しで自由に書くことはできない」と言った。これは、あまり広がらなかったが、ホントのところは私の言わばライフワーク的なことにつながる重要な話だ。(書ではないが身体の諸々のことに関係する)それでメチャクチャ長く話してしまいそうなので、現場では最初から触れないことにした。この問題は聞かれたら「自由」と「自在」の違いから考えることにしている。先の書の例は自由よりも自在と言った方が良い。なぜなら自由は「縛られない状態」であり、自在は「思うように動ける」ことだからだ。自由というのは、いつも何かからの自由だ。自由に動いていいよ、と言われたら、「どこに行っても、どんなふうに動いてもいいですよ」と受け取る。でも空は飛べない。重力の拘束があるからだ。仮に重力から自由になれば、私は宙に浮くことができる。

あまり使われないが、これに対して自在に動くとは、重力があるなら重力を味方にできることなのだ。合理性に従い、最大の可能性を得ることでもある。

良いコーチは、人を最大限自在に動けるようにするが、そのためには、どうしても一定の不自由を体験させなければならない。芸術やスポーツ、武術のような身体を使った芸事を体験した人は、体感していることだ。バイエルや形稽古から、合理性に即した動きを自然に再現できる状態を「身に付いた」と日本語では表す。何と見事な表現だろう!

社会が求める「新たな発想のできる人」なんていうものは、自由な人ではない。自在に考えられる人なのだろう。であれば、一定の不自由を思考においても経験する必要がある。まあ、それこそが狭義でも広義でも「教えられる」ものの総体となるのなら、いよいよ内容よりも教える方法が大事な気はしてくる。そこにおいて少々重要なことを、夜のオンライン対話で考えることになるのであった。