哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

今日の哲学カフェ「恥ずかしいとは」

「西洋は罪の文化。日本は恥の文化」みたいな話は、一切出ない2時間。だからどうかはあまり関係なく、終始おもしろい会だった。比較文化ではなく、各人が自分の恥ずかしいという感情にフォーカスするのを、聞き、話す瞬間は、ある種のスリリングさを伴っていた気もする。

恥ずかしさの種は、属する集団などの美意識や価値観、または自分の信仰や思い込みから外れた位置に、自分が立っていると感じた瞬間に生まれる。

集団でわかりやすいのは、学校という狭い世界だ。私の中学生時代、学生鞄をペシャンコにして登校するやつが何人もいた。真面目が恥ずかしいと思うグループはそれをする。ホントは不良の格好が恥ずかしいと思いながら、いじめられないようにするために、あわせていた者もいたことだろう。

自分の思い込みとの違いからくる恥ずかしさの具体例は、自分の録音された声や、録画された映像を見たときだ。見られたときでなく、見たときか恥ずかしいのだ。

恥ずかしさの反対のベクトルは、誇らしさであろうか?回転寿司の一連の事件では、本来ならやる前から明らかなはずの恥ずかしさが、「バズる」という一点において、その瞬間は消え失せてしまってるのかもしれない。バズることが誇らしいと表現できるかは不明だが、私は取り立てて「今の若者は…」などとピラミッドの落書きからあるような言葉で嘆くことはできない。あんなの、自分の高校生時代にスマホSNSがあれば、今の若者の数倍は出ていたはずだから。

恥ずかしいことが何かは、わりと速いスピードで変わることもある。デカルトの時代でさえ、10年前の服は着ると奇異な目で見られると記されている。

服やカバンの厚さくらいなら、恥のダメージも大したことではない。いつの時代に見ても恥ずかしいことだけはせずに生きたいものである。戦時中に特攻隊を作った責任者に当たる者は数名いるが、戦後のうのうと長寿を全うした者もいる。右から見ても左から見ても、これほど恥ずかしい生き方は、他に思い浮かばないが、本人は自決することが恥を認めることになると考えたのかもしれない。だからそれを他者は「恥知らず」と呼ぶ。それは一種の病と言えるのだろうか?

「他人の失敗も新しいことへのチャレンジなんかなら、かっこよく見える」という話があったが、何となくモヤモヤしていて、後になって気がついた。

スポーツ選手が五輪でイチかバチかの勝負に出て敗れるのはかっこいいかもしれないが、東京五輪汚職を華麗なる失敗とは誰も呼ばない。かっこよく見えるチャレンジの失敗は、失敗ではなく「未成功」と言うべきものなのだ。もちろん、これとてその行動や目的に反対する人にとっては、端から「見てて恥ずかしいこと」にしかならないわけだが、そこは積極的に「恥知らず」となって成功を目指すくらいでちょうど良かったりするわけである。