哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

あるある 話が長い問題

先に断っとくと、今回の記事は無駄に話が長い。最後まで読む人いるかなあ。

対話の中で話が長くなる人にはいくつかのパターンがある。一つは「同じことを反復する」。これは「自分の考えが正しく伝わっているのか?」という不安から来ることが多いようだ。この不安が続く限り話すのをやめるのは難しい。進行役の仕事がはっきりしている場では、ここで「それ、こういうことですね」と切ることで、本人も不安から開放される。

今回、考えてみたいのは、もう一つの「話を繰り返してるわけではないが、何が言いたいかが、いつになっても出てこない」ケースである。

一般的に話し方、論じ方で、よく推奨される代表的なものに「自分の話を理解してもらいやすくするには、結論を一番先に言う」ことがある。

しかし哲学カフェのルールというか心得みたいなものには「机上の知識より自身の体験から話す」という姿勢があるのだ。自分の体験(物語)ならば、まず始まりがあって、終わりまでを話さなければならなくなる。

いや、それにしても短く話すことができないわけではないだろう。「間違った信念を溶かすのに愛が必要だ」と結論を先に言った後に、「罪と罰」を30秒で要約して語ることだって可能っちや可能なんだから、たいがいの話は「私はこう思うんだ。まあ、こんなことがありまして…」と、それなりの一分間でできそうではある。

しかし、しかし!だ。結論・要旨というのは、「○○は▲▲だ(ではないか?)」という単純化されたもので、逆に言うと「○○は▲▲以外ではない(のではないか?)」という、切り捨ての実行でもある。それはもはや物語からかけ離れた、月並みな教訓や単なる命題になりさがったものだ。それを最初にポンと言うことに抵抗を覚えることはあり得る。

そういう人は、少なくとも自分の思いには誠実ともいえるのではないか。何を言わんとしているか要領を得ないまま、話が長引きがちな人の中にいるかもしれない。

これは関係ないかもしれないが、もう一つ。

昔ばなしとか、古典説話集にあるような物語は「今は昔」なんかで始まり、「どんとはらい」とか「なん語り伝えたるとや」で終わる。もしかしたら我々には、あれが身体に染み付いているんだろうか。小学校の国語の教科書が、評論のような論理的文章よりも、感性に訴える文学作品に偏っているのも、原因の一つになっているかもしれない。「知識ではなく経験で話そう」というスローガンに従った結果、途方もないスタート時点から、話し始める人がいてもおかしくはない。(いや自分もやってそうだ)

思い切り時間を設けて、そんなんもOKなのをやってみたくもある。いや、よほど興味を引く話でない限り、すぐにイヤになるかもしれない。そうなると、問題は「話が長い」ではなく、「内容が(色んな意味で)つまらない」ということになりそうだ。

そもそも「話が長い」は「最後まで聞くのがつらい」状態ではある。身も蓋もない言い方をすると、「長いだけで中身のない話」と受け取られている場合があるよ、ということだろう。自分にとっては意味があるけど、他人には興味もわかず、思考の資料とも看做されない、そういうものかどうか、話す前に一旦懐中で転がしてみる余裕を持っておきたいと自分は思う。