哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

テーマあるある「〇〇とは何か」

対話のテーマ(お題)として、一つの単語だけを持ってくるやり方で、おそらく全国で最もよく行われる方法かと思う。

テーマにふさわしい単語は、何でも良いわけではない。あまり使われない方から考えてみよう。

1.固有名詞。

例えば中島みゆきの歌詞は、お題がジャンジャカ出てきそうなくらいに魅力的な問いかけに満ちているが、だからといって「中島みゆきとは何か?」という問いは不適切である。実際に開催すれば結構な人が集まる予感はあるが、純度の高いオタクが集まって、濃度の高いエピソード知ってるぜ自慢の応酬だけに終わりそうな予感の方が確実である。中島みゆきが歌う「現代人の有り様」について語り合うのは、ファンや関係者でなくてもできるし、実際やってみたい気もするが、「現代人の有り様」を歌う「中島みゆき」について語ることになったら、陶酔的なファンか信者の、それぞれの勘違いを戦わせるだけのことになるだろう。

ニュースや時事ネタを扱うことは稀にありうるが、その場合は、個人名や組織名でなく、事件そのものについての話になる。

個人や団体に対して「何か?」と問うことはできない。「私とは何か?」という哲学上の難問は、「誰もにとっての私」であり「私個人」についてではないからだ。

2.物体,目に見えるもの

モノにまつわるコトについての対話は可能だが、そのモノ自体が何か?というのは一秒で終わる話なので、何人も集まってすることにはならない。

自転車について、それぞれが経験を語り、自分にとっての自転車の価値を語ることはおもしろい会かもしれないし、それを「あなたにとって自転車とは何か?」というタイトルで行うのもアリだ。しかし、それはあくまで「私にとっての自転車」という価値についてであり、「自転車そのものが何か?」ではない。自転車が何かは辞書で充分なのだ。

3.事実認定が不安なもの

1で触れた時事的なニュースなどについて行う場合には、注意が必要になる。メディアでしか事情を知らない者の中に、当事者が参加していることもありうる。「出来事」には無数の事実があり、そのうちの限られた事実を、限られた当事者がそれぞれ信じている状態であり、外部の人間は、その中から都合よく抜き取られたごく一部の情報をつかまされている。その段階を全員が承知でおこなうならば良いが、おそらくそれらの事実に関する情報の共有だけで二時間を使ってしまいかねない。歴史的な物語についても同じことは言えるが、いずれにせよ予めテキストを決めた上で、「〇〇とは何か?」以外の問いを立てるのが良いと考える。

続きは次回に!

 

 

ある日の哲学カフェ「友達は必要か?」

少し気持ちのざわつくようなテーマがいい。よく言う哲学カフェのモヤモヤというのは、普通は問いに対する意見に対しておぼえるものだが、この場合タイトルの問いの段階で始まっている。

主催者がテーマを決める時に、仮に友達に関してならば、単にタイトルを「友達」としたり「友達とは何か?」で開くこともあれば、今回のようなものみたいにすることもある。

「友達」や「友達とは何か」に比べて、「友達は必要か」となると、最初から問いが限定されてはいるが、二つの言葉が並んでいるため、「友達とは何か?」と「必要とは何か?」を、個別に考えなければいけないのではないか?二つ分の時間がかかるのではないか?という危惧が出そうでもある。

ところが実際やると、たいていがそうはならない。

友達って何だろう?と考える時も、人が人を必要とする時はどんな時か、頭に常に置いているおかげで、かえって「必要とは何か」についても、明瞭になってきやすい。小さな範囲から多様に考えることは、ある種のコツとして有効なのだ。(逆に広い範囲からありきたりな意見が集まってもあまり良いことがないので、それを防げる利点もある。)

今回、進行の仕方も人数に合わせておられてたのと、老若男女(小学生もいた)そろっていたため、かなりおもしろい対話になったが、内容とその感想は改めてにしたい。

あるある 話が長い問題

先に断っとくと、今回の記事は無駄に話が長い。最後まで読む人いるかなあ。

対話の中で話が長くなる人にはいくつかのパターンがある。一つは「同じことを反復する」。これは「自分の考えが正しく伝わっているのか?」という不安から来ることが多いようだ。この不安が続く限り話すのをやめるのは難しい。進行役の仕事がはっきりしている場では、ここで「それ、こういうことですね」と切ることで、本人も不安から開放される。

今回、考えてみたいのは、もう一つの「話を繰り返してるわけではないが、何が言いたいかが、いつになっても出てこない」ケースである。

一般的に話し方、論じ方で、よく推奨される代表的なものに「自分の話を理解してもらいやすくするには、結論を一番先に言う」ことがある。

しかし哲学カフェのルールというか心得みたいなものには「机上の知識より自身の体験から話す」という姿勢があるのだ。自分の体験(物語)ならば、まず始まりがあって、終わりまでを話さなければならなくなる。

いや、それにしても短く話すことができないわけではないだろう。「間違った信念を溶かすのに愛が必要だ」と結論を先に言った後に、「罪と罰」を30秒で要約して語ることだって可能っちや可能なんだから、たいがいの話は「私はこう思うんだ。まあ、こんなことがありまして…」と、それなりの一分間でできそうではある。

しかし、しかし!だ。結論・要旨というのは、「○○は▲▲だ(ではないか?)」という単純化されたもので、逆に言うと「○○は▲▲以外ではない(のではないか?)」という、切り捨ての実行でもある。それはもはや物語からかけ離れた、月並みな教訓や単なる命題になりさがったものだ。それを最初にポンと言うことに抵抗を覚えることはあり得る。

そういう人は、少なくとも自分の思いには誠実ともいえるのではないか。何を言わんとしているか要領を得ないまま、話が長引きがちな人の中にいるかもしれない。

これは関係ないかもしれないが、もう一つ。

昔ばなしとか、古典説話集にあるような物語は「今は昔」なんかで始まり、「どんとはらい」とか「なん語り伝えたるとや」で終わる。もしかしたら我々には、あれが身体に染み付いているんだろうか。小学校の国語の教科書が、評論のような論理的文章よりも、感性に訴える文学作品に偏っているのも、原因の一つになっているかもしれない。「知識ではなく経験で話そう」というスローガンに従った結果、途方もないスタート時点から、話し始める人がいてもおかしくはない。(いや自分もやってそうだ)

思い切り時間を設けて、そんなんもOKなのをやってみたくもある。いや、よほど興味を引く話でない限り、すぐにイヤになるかもしれない。そうなると、問題は「話が長い」ではなく、「内容が(色んな意味で)つまらない」ということになりそうだ。

そもそも「話が長い」は「最後まで聞くのがつらい」状態ではある。身も蓋もない言い方をすると、「長いだけで中身のない話」と受け取られている場合があるよ、ということだろう。自分にとっては意味があるけど、他人には興味もわかず、思考の資料とも看做されない、そういうものかどうか、話す前に一旦懐中で転がしてみる余裕を持っておきたいと自分は思う。

今日の哲学カフェ「恥ずかしいとは」

「西洋は罪の文化。日本は恥の文化」みたいな話は、一切出ない2時間。だからどうかはあまり関係なく、終始おもしろい会だった。比較文化ではなく、各人が自分の恥ずかしいという感情にフォーカスするのを、聞き、話す瞬間は、ある種のスリリングさを伴っていた気もする。

恥ずかしさの種は、属する集団などの美意識や価値観、または自分の信仰や思い込みから外れた位置に、自分が立っていると感じた瞬間に生まれる。

集団でわかりやすいのは、学校という狭い世界だ。私の中学生時代、学生鞄をペシャンコにして登校するやつが何人もいた。真面目が恥ずかしいと思うグループはそれをする。ホントは不良の格好が恥ずかしいと思いながら、いじめられないようにするために、あわせていた者もいたことだろう。

自分の思い込みとの違いからくる恥ずかしさの具体例は、自分の録音された声や、録画された映像を見たときだ。見られたときでなく、見たときか恥ずかしいのだ。

恥ずかしさの反対のベクトルは、誇らしさであろうか?回転寿司の一連の事件では、本来ならやる前から明らかなはずの恥ずかしさが、「バズる」という一点において、その瞬間は消え失せてしまってるのかもしれない。バズることが誇らしいと表現できるかは不明だが、私は取り立てて「今の若者は…」などとピラミッドの落書きからあるような言葉で嘆くことはできない。あんなの、自分の高校生時代にスマホSNSがあれば、今の若者の数倍は出ていたはずだから。

恥ずかしいことが何かは、わりと速いスピードで変わることもある。デカルトの時代でさえ、10年前の服は着ると奇異な目で見られると記されている。

服やカバンの厚さくらいなら、恥のダメージも大したことではない。いつの時代に見ても恥ずかしいことだけはせずに生きたいものである。戦時中に特攻隊を作った責任者に当たる者は数名いるが、戦後のうのうと長寿を全うした者もいる。右から見ても左から見ても、これほど恥ずかしい生き方は、他に思い浮かばないが、本人は自決することが恥を認めることになると考えたのかもしれない。だからそれを他者は「恥知らず」と呼ぶ。それは一種の病と言えるのだろうか?

「他人の失敗も新しいことへのチャレンジなんかなら、かっこよく見える」という話があったが、何となくモヤモヤしていて、後になって気がついた。

スポーツ選手が五輪でイチかバチかの勝負に出て敗れるのはかっこいいかもしれないが、東京五輪汚職を華麗なる失敗とは誰も呼ばない。かっこよく見えるチャレンジの失敗は、失敗ではなく「未成功」と言うべきものなのだ。もちろん、これとてその行動や目的に反対する人にとっては、端から「見てて恥ずかしいこと」にしかならないわけだが、そこは積極的に「恥知らず」となって成功を目指すくらいでちょうど良かったりするわけである。

一日で教育二題続き

「日本の教育には何が足らないのか?」という、ビッグプロジェクトっぽいというか、朝ナマ的というか、市井の哲学対話ではあまり拾わないお題で、主催進行の人もやや危惧しながら始めたと、後の雑談でも話されていたが、こんなんも、たまには参加してみるとおもしろい。

なんとなく、以下の大きく二つの潮流が出ていたが、主には2についての時間が長かった。

1.グローバル社会への対応努力が欠けている。具体的には、英語(外国語)、金融(お金の)教育が要る。

2.知識、情報以外のもの。想像(創造)力のように自発的な力。前知識という表現もあった。

1と2の違いは、前回の話で取り上げた「教えられるもの」とそうでないものに近い。

理由は多少違えど、批判的思考の能力向上が必要と大体の人が考えていたが、実際はもっと基本的なロジカルシンキング強化も先に必要ではないかと、個人的には思う。まあ、世界基準で低いわけでは無いらしいが、このままで良しとなるとかなり危うい。これは確実に教えられるものなので、工夫次第で向上可能だろう。(国の愚民政策でわざと力を入れていないという話は置く)

クリティカル(批判的)に物事の前提から考えるような作業は、対話型授業などでおこなうことになる。一応最近の指導要領なんかには、「答えのない問題に挑む時間」も加わってきていて、実際に哲学対話の導入は、徐々に増えてはいる。だがしかし、そこでのあり方にこそ、私は日本の教育の問題を感じるのだ。というのは対話授業が導入されるに当たって、教育者側を悩ませているのは、評価方法だという。ヒョウカ?はあ?って思うのは、多分私だけでなく教職者の中にもゴマンといるだろう(そう願っている)特に前々から、自主的に哲学対話を取り入れていた先生にとってみれば、却って困った事態になったと頭を抱えてても無理はない。

「評価」には軸となる判断基準が必要となる。思考の行き先に多くの可能性を確保しなければならない場所で、判断基準に合わせようとする努力をさせるなら、それは「教えられるもの」の範囲から、さして出ないものとなる。

「評価はしません」と宣言されても、先生の顔色をうかがってしまうことがあるのだから、いっそ知らない誰かに進行やってもらった方が良いのではないか。そのためには、もっと市井の人の中で対話が流行る必要があるのだが、なかなか進まぬのである、これが。ていうか、現段階だと、私が時々あげつらっているような、「困った人」が進行役をかってでて、一生ものの損失を与えかねない。対話教育に評価は要らぬが、進行役には評価がたぶん必要になるはずだ。大学で哲学を教えているような人でも、アレっていうことあるし。自分のことも言えたものではないんだけどね。

 

 

 

 

 

一日で教育二題

たまたま教育に関する哲学カフェを、同じ日の午前に対面式で、夜にオンラインで参加するという経験をした。

午前は「教えられることと、教えられないこと」

「教える」という意味を、「伝える」に近く限定するか、「教育」まで拡大するかで、方向性が変わってしまう。あえてその差に目を向けないと、考えが深まらない。

限定したときに「教えられないもの」として出てくるのは、自由、自発性、独創性など、個を源泉に発生されるものと、感性、クオリアのように、個人が広義の経験によって感得する他ないものだ。これは「教える」ものでなく「育つ」「育(はぐく)まれる」ものとなる。夜のオンライン対話のテーマは「日本の教育に足らないものは何か」だったが、おおかたの人が、この部分に注目をしていた。

教育関係者である進行役は、この「育つ」ベクトルも、社会の要求から誘導されたものになることへ、何かしらの問いを期待していた節がある。「誰かれも殴りかかる自由」や「家に火をつけまわる才能」の実現を避けるべきは自明としても、自らの外に出る前の意志の幅が、外からの力で制限されることへの懸念を持っているかのようであった。(だいぶニュワンスが違っているかもしれないが、今の私の解釈である)

なるほど、これは哲学対話で使われるルールに通じるものがある。私は使用を避けていると書いた「何を言ってもいい」と同じだ。https://toehatae78.hatenablog.com/entry/2022/11/20/121938

最大最多の可能性から得られる選択こそ良しとする考えもあるかもしれない。しかし、これはある種空想上の可能性であり、他者に知る由もなく、「言う必要もない」類のものとなる。

対して参加者の一人が「書道ではどんな書体も基本無しで自由に書くことはできない」と言った。これは、あまり広がらなかったが、ホントのところは私の言わばライフワーク的なことにつながる重要な話だ。(書ではないが身体の諸々のことに関係する)それでメチャクチャ長く話してしまいそうなので、現場では最初から触れないことにした。この問題は聞かれたら「自由」と「自在」の違いから考えることにしている。先の書の例は自由よりも自在と言った方が良い。なぜなら自由は「縛られない状態」であり、自在は「思うように動ける」ことだからだ。自由というのは、いつも何かからの自由だ。自由に動いていいよ、と言われたら、「どこに行っても、どんなふうに動いてもいいですよ」と受け取る。でも空は飛べない。重力の拘束があるからだ。仮に重力から自由になれば、私は宙に浮くことができる。

あまり使われないが、これに対して自在に動くとは、重力があるなら重力を味方にできることなのだ。合理性に従い、最大の可能性を得ることでもある。

良いコーチは、人を最大限自在に動けるようにするが、そのためには、どうしても一定の不自由を体験させなければならない。芸術やスポーツ、武術のような身体を使った芸事を体験した人は、体感していることだ。バイエルや形稽古から、合理性に即した動きを自然に再現できる状態を「身に付いた」と日本語では表す。何と見事な表現だろう!

社会が求める「新たな発想のできる人」なんていうものは、自由な人ではない。自在に考えられる人なのだろう。であれば、一定の不自由を思考においても経験する必要がある。まあ、それこそが狭義でも広義でも「教えられる」ものの総体となるのなら、いよいよ内容よりも教える方法が大事な気はしてくる。そこにおいて少々重要なことを、夜のオンライン対話で考えることになるのであった。

ある日の哲学カフェ 神や仏がいると考えて…

信仰絡みの対話のしにくさは、根本のはじまりのところが「人それぞれ」であることから予測できる。個別の宗教学の話をせずに語れることが多くあることを、想像できないのか、しようとしないのか、不自由な(と本人は思っていない)まま終わってしまう人がいるのは、もしかしたら仕方もないことなんだろうか。これが、老若男女いる中で、決まって高齢かつ男性だけだったのは、たまたまなのか、あるあるなのか?

哲学カフェの本来の目的や意義を知っている人であれば、もし特定の信仰を持っていたとしても、その教義をもって「かくあるべし」または「好まし」とかいう発言は、避ける努力をするだろう。

先の件においても、当の本人たちは、そういう努力をしていたつもりかもしれないなあ、とは一応今になって思う。これは気がつくかどうかの問題だからだ。

教義の知識ではなく、個人的な信仰体験の告白は、それが既存の宗教であれ、内発的なものであれ、他者(異教者、無神論者を含む)にとっても考える意義をもたらす。告白の中身が、全く理解も共感もできないものであったとしても、現実に眼の前で生きている人間の在り方の一部であることに、我々の理性は幾ばくかのゆらぎを与えられるからだ。吾彼の教義の違いを知るのとは全く意味が違う。

しかしこれがまた、そういう発言をするのが、たまたま老若ともに女性だけだったのは、たまたまか、あるあるなのか?

あるあるだとしたら、それは「脳の違い」とかよりも、時代環境の影響によるものが強いだろうと、今のところは考えている。