哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

ある日の哲学カフェ 神や仏がいると考えて…

信仰絡みの対話のしにくさは、根本のはじまりのところが「人それぞれ」であることから予測できる。個別の宗教学の話をせずに語れることが多くあることを、想像できないのか、しようとしないのか、不自由な(と本人は思っていない)まま終わってしまう人がいるのは、もしかしたら仕方もないことなんだろうか。これが、老若男女いる中で、決まって高齢かつ男性だけだったのは、たまたまなのか、あるあるなのか?

哲学カフェの本来の目的や意義を知っている人であれば、もし特定の信仰を持っていたとしても、その教義をもって「かくあるべし」または「好まし」とかいう発言は、避ける努力をするだろう。

先の件においても、当の本人たちは、そういう努力をしていたつもりかもしれないなあ、とは一応今になって思う。これは気がつくかどうかの問題だからだ。

教義の知識ではなく、個人的な信仰体験の告白は、それが既存の宗教であれ、内発的なものであれ、他者(異教者、無神論者を含む)にとっても考える意義をもたらす。告白の中身が、全く理解も共感もできないものであったとしても、現実に眼の前で生きている人間の在り方の一部であることに、我々の理性は幾ばくかのゆらぎを与えられるからだ。吾彼の教義の違いを知るのとは全く意味が違う。

しかしこれがまた、そういう発言をするのが、たまたま老若ともに女性だけだったのは、たまたまか、あるあるなのか?

あるあるだとしたら、それは「脳の違い」とかよりも、時代環境の影響によるものが強いだろうと、今のところは考えている。