哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

今日の哲学カフェ 人と自然

昨日は、困った人(自分のことは棚に上げてる)が来たことがない、ありがたい哲学カフェが今年最後の会。

テーマの広さのため、大木の如く枝と根が広がってしまう。

印象に残ったのは、創世記において神から人に託されたのは、自然への管理であり支配ではないということ。

管理と支配、どう違うんだ?

マンションの管理人とホテルの支配人では確かに違う。管理人ー地球に住み込みながら、住人(生態系)サービスをおこなうのが、旧約聖書でのあるべき人間ということか。だが、実際のところ人は地球ホテルで、他の存在からの搾取を続け、管理職として高収入を得ている。

自然を天地と呼んだ、昔の東アジアだが、大陸と日本では随分と違いもあらわれた。

「手に届いて操作可能な地」と「操作不可能だが予測がある程度可能な天」というのが、東洋の基本的な自然感ではあるが、日本では地において、地震や噴火など予測も操作できないことが多すぎる。意識下で増大する自然への畏れは、その分だけ特異な世俗性を押し上げてきたのではないか。

自然と共存するという考え方自体が、人と自然の対立構造に浸りきった結果なのは確かだが、そこから抜き出ることはもはや不可能だ。有史以来戻ったことはない。前進を止めてきた人たちはたくさんいる。彼らに対する評価を、環境保護の活動家から聞くことは稀だが、これは今日の経済の問題とつながるので措く。(たまたま今夜はその話へと挑むことになる)