今日の哲学対話 子供と読書会「王子と燕」
一冊の本を哲学対話の手法で語り合うオンライン読書会に参加した。
有島武郎の「王子と燕」
私の記憶にあったのは、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」(誰の翻訳かは覚えてない)で、有島版は初めて読んだ。存在も知らなかったので、これを機に読み比べができたのはありがたかった。
子供たちが提示した問いがおもしろく、全部深掘りできれば、どんなに楽しかったかと思う。
興味深かったのは、子供たちの多くが、人助けをしながらも燕をこき使っている王子に、ちょっと反感を持っていることだった。
施しそのものに傲慢さみたいなものを感じる子がいて、これは詳しく聞かねばならぬと思いつつ、そのままになったのを後悔している。確かに絶対的な自己犠牲は、相手への強力なコントロールかもしれない。彼女の方は、どんなことを考えていたのだろう。
教科書的な読解では、「作中に込められた作者の意図」を読むことが良しとされるのだが、子供の関心の的は往々にして、そことは別の多方向に飛んでいく。
物語の隅っこにあるエピソードに惹かれると、その後日譚や前日譚を考え出す。それはその子オリジナルのスピンオフみたいなものだ。
私も子供心に戻ろう努めて、問いだしで「王子の生きてた時はどんな人だったのか?」と投げたら、投票でキックオフに選ばれてしまい、うれしいような、ミスったような気持ちになってしまった。
時間内に広げられることなく、終わってから、とにかく心に張り付いて残った問いはこれだ。
「王子は死んだのか?」
死とは何なのか?その子は知ってか知らずか、まさにこれを問うたのだ。