哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

ルールの問題「何を言ってもいい」

対話のためのルールとして、よく使われるフレーズに気になるのがある。

「何を言ってもいい」

私は自分が主催する場合には、これは言わない。「何を言ってもいい」のすかさず後で「否定的な発言はしない」という文言が降りてくるのは、「すべて無料」の内容を1時間聞かされてその気になったころに、「ただし○○料が月々1万5千円かかりまして〜」と言ってきたセールスマンを思い出させる。

もちろん趣旨はわかっている。普段ならば世間体や常識、立場によって発言は制限されていて、それに気づいていないことさえ多い。だから、意識して一度それを取っ払った上で考えなおす時間にしよう!という意味だ。

また「本で読んだ知識より、自身の経験で話そう」と言われる。

そこには、哲学はすべての人間にとって可能で普遍的な営みだという思いと、それぞれの人間が違う人格存在であるという確信を、同時に満たそうとする情熱がある。いや、しかしそれならやっぱり「何を言ってもいい」とか最初に言うなよ!とならないか?

「何を言ってもいい」以外に理解してもらう方法を考えたい。だいたいは言わなくても通じてるのだが。

 

あるある 困った人

どこにでも困った人というのが一定数いる。哲学カフェにもいる。いや、ここほどわかりやすい場所もないかもしれない。

どこにでもとは言ったものの、あまりそんな人のいない集まりもある。主催者の傾向や告知の仕方、場所や日時を含む開催方法によって違いが出そうだ。おのれを棚に上げて正直に言うと、困った人は高齢男性が多い。

それらの代表は「マウントをとる人」と「話す時間が長いだけで、内容から得るところがない人」である。

一般的にはマウントを取る人が問題視されるが、自分的にはそれより後者が遥かに困る。マウントを取ろうとする人には、進行役にも参加者にも、それなりの対応策がとれるし、またそこまで自説で人に覆いかぶさろうとする態度自体からは、何かしら掘り出せるものがあるからだ。

内容が無いとそれもできない。そんな人はたいてい経験ではなく知識で話す。それも、今さら誰もが知っている話を延々とする。「知識ではなく経験で話そう」と言われてもやり続ける。

マウントを取る人は必ずしも、知識中心型だけではない。武勇伝的なエライ経験を語る人もいる。その場合不快でも、それだけ差し引いて聞いて、遠慮忖度しなければ、ツッコミでも質問でもできる。内容がなければ質問もできない。

マウントを取る人は問いではなく、答えを一方的な方向に持っていこうする人である。それに対しては主催者、進行役が対処する準備をしていたほうが良い。

 

 

 

 

今日の哲学カフェ「人の魅力」

ちょいワルどころではない「クソ男」なのに、異性同性どちらからも人気がある。そんな人の魅力とは何なのだろうから始まりながらも、なかなか詰められるところにはいかない。いや、「詰められない」からといって「つまらない」わけではない。おもしろさはまた別で、適度に散乱しつつも思考は動き続けている会にはなった。

注目すべき意見があった。ビブリオバトルでは結局のところ「読むといいことがある」ような話をした人が勝ったりする。魅力とは、自分に益するところを感じているだけのことではないか?

私にとって魅力的な人は、自分の美意識にうったえてくるものがある人なのである。これも、確かに自分の欲望に与えられる無形の利益ではある。ならば人の魅力は人を繋ぐ力だ。

完全無欠な人などいないだろうが、いたところで、その人が万人に魅力的かといえば多分違う。これは出なかったが、魅力はどこか予想を裏切らなければならない。他人の予想を裏切る有りようは、呆れか嫌悪か笑いだが、どれにも当てはまらなければ魅力として目に映るかもしれない。

このことに気がついたのは、たった今である。

 

今日の哲学カフェ 「流行の本質」

オンラインにて開催された「流行」について。問い出しで、流行の本質とは何か?に。今まであるようでなかったテーマ。

流行という状態だけであれば、コロナもファッションも健康法も似ているが、出発点が違う。

1.自然発生ー感染症

2.意識的につくられるもの

A.期限付きの流行(そもそも流行とは期限付きのものを言うのであろう)を、最初から狙うもの。ファッション業界、サブカルチャー

B.始めた本人は定着を目的としているが、結果一時的な流行に終わるもの。健康法、思想。

2の中から、一時的な流行を超えて残るものもある。経済力によってもたらされるものが多いが、必ずしもそうとは限らない。渋谷の女の子から発信されるもの、貧乏なアーティストからはじまるものもある。これも、外から眺めると1のように自然発生的に感じられる。

何かしらの快感や利得がなければ流行ることはない、ましてや定着はしない。ファッションは、過去より少し珍妙さを競い、それを一人ではなくみんなで着ることで快感を得ている。ファーストペンギンは現在では広義のプロがおこなっているのだろう。

流行に乗る乗らないは、自分にとっては器用不器用である気がする。自分のように不器用だと、乗れそうなときには終わってるのだ。

 

今日の哲学カフェ 「母親」

仕事の上で東京に行くのを機会に東京でさがしたらヒット。ぎりぎり途中参加。「母親」というワードは今までテーマで見たことがない。主催者さんもいささかの勇気や準備があったよう。

男性は自分一人。

遅れてきたのでテーマにはあまり入れなかったが、新しい試みをしている方々に会えたのは吉であった。

 

今日の哲学カフェ 「期待」

何も信じないという態度は、何も期待しないようにしていることじゃないかとキックオフ。

期待と信じるのセットから、他の言葉が出てくる。予想、依存、圧力。期待というものと現在の間に横たわるプロセスのありようと考え分けられないかと?

(期待と依存や圧力、利用みたいなことで考えるに、相手への期待にリスペクトがあるかどうかという観点が帰宅中に生まれる。期待ありきで、あとは関係性の問題なんだがな)

自分への期待があるか否かで分かれるのはおもしろい。

私は自分への期待というのが基本にあると思うが、自己の未来にどんな言葉をつけるのかが、ひとにより違う。なぜか意思という言葉が出なかったなあ。

世界に期待しない、世界から期待されない、これは最大の絶望。コロナ禍の自殺はそれではないのか。

ハイデガーの非本来的決意性。期待が可能性と地続きであるかどうかではないか?これは生活上考えの軸になりうる。