哲学カフェ・対話の話

哲学カフェ、哲学対話の参加や主催をする中で、考えたことを記しています。深い話はありません。哲学カフェ参加の感想は、対話中に出た話と、後で考えたことが混ざっています。

今日の哲学カフェ「安心・安全」

何となくあるイメージとして、こんなのがある。

安全→客観的に評価されてつくるシステムやルールによって成立するとされる。

安心→主観によるもの。

ところが、最近では心理的安全性という言葉がよく使われる。これは何なのだろうか?

先進的な企業活動では、単に従順な機械的労働ではなく、積極的な意見交換などを通じて、個人と全体の生産性や能力向上に寄与していく必要があり、そのために組織は個人から「自分が意見を出しても大丈夫」という信頼を得ていないといけない。

「自分は何もしなくても言わなくても良い」ような「ぬるま湯のような安心感」ではないのだと、説明されたりしている。

哲学カフェ・対話の場で、心理的安全がうたわれるのは、「みんなで考える」作業を実現するために、個としての存在が尊重される必要があるからだ。では企業の説明と同じように考えると、「自分は何も言わなくても良い」という「ぬるま湯のような安心感」で参加してはいけないのか?という疑問が出てくる。例えば聞き専を許す会はどうだ?ぬるま湯の安心感があるのかというと、それは違う。

他者の言葉を聞くことは、多少なりともリスクを伴うものだ。自分にとって極めて不快だったり、不安を掻き立てる言葉が出てくる可能性はいつもある。工場で危険への認知ができないまま、「安心」している人はいつか事故を起こす。一人で安心しているだけなら、危険は忍び寄る。

「安全は事故を防ぐことだが、安心は『事故が起きたとしても大丈夫』と思えることではないか」

これは重要だ。対話の場での安心は、「常に機嫌よく聞いたり言ったりできること」ではないことがわかる。

「私は話して良い。聞いて良い」という心理的安全と、「もし言葉によって事故が起きても、この場も私も大丈夫」という自信と信頼感こそが必要そうだ。

安全は最初に述べたように、誰もが理解可能なルールやシステムによって成り立つ。それは、大なり小なり支配的関係を容認することになる。支配はある境を超えて強くなれば、かえって不安を生み出す力になるだろう。これにしても、絶対的なちょうど良い程度などありはしない。

エレベーターに安全装置は必須だが、「安全装置が安全に作動するかどうかを監視する安全装置をつけよう」となると、安全装置は永遠に増えていく。その増えた分、結局人の力によるメンテナンスも増えてしまい、危険因子もなくならない。

「君の責任だから失敗するな」という上司よりも「オレが責任を取るから失敗を気にするな」という上司の方が、「この人のために失敗しないでやろう」と思われるのは何となくわかる。

対話の場には上司も部下もない。進行役はルール説明をするが、進行役と参加者の支配関係ではない。そうならないようにするために、ルールを全員が了解することが前提となる。あえて上司↔部下の関係(後者の方)に例えるなら、一人↔他の全員である。どちらも上司でどちらも部下の立場として参加することで、協力的に意見を出しやすくなるはずなのである。

 

 

 

 

 

今日の哲学対話 子供と読書会「王子と燕」

一冊の本を哲学対話の手法で語り合うオンライン読書会に参加した。

有島武郎の「王子と燕」

私の記憶にあったのは、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」(誰の翻訳かは覚えてない)で、有島版は初めて読んだ。存在も知らなかったので、これを機に読み比べができたのはありがたかった。

子供たちが提示した問いがおもしろく、全部深掘りできれば、どんなに楽しかったかと思う。

興味深かったのは、子供たちの多くが、人助けをしながらも燕をこき使っている王子に、ちょっと反感を持っていることだった。

施しそのものに傲慢さみたいなものを感じる子がいて、これは詳しく聞かねばならぬと思いつつ、そのままになったのを後悔している。確かに絶対的な自己犠牲は、相手への強力なコントロールかもしれない。彼女の方は、どんなことを考えていたのだろう。

教科書的な読解では、「作中に込められた作者の意図」を読むことが良しとされるのだが、子供の関心の的は往々にして、そことは別の多方向に飛んでいく。

物語の隅っこにあるエピソードに惹かれると、その後日譚や前日譚を考え出す。それはその子オリジナルのスピンオフみたいなものだ。

私も子供心に戻ろう努めて、問いだしで「王子の生きてた時はどんな人だったのか?」と投げたら、投票でキックオフに選ばれてしまい、うれしいような、ミスったような気持ちになってしまった。

時間内に広げられることなく、終わってから、とにかく心に張り付いて残った問いはこれだ。

「王子は死んだのか?」

死とは何なのか?その子は知ってか知らずか、まさにこれを問うたのだ。

 

 

 

 

今日の哲学対話「気候正義ってどんな正義?」

オンラインにて「社会と自分」という大テーマの中の一つとして開催。どちらかというと「社会」よりも「自分」を考えるためにやっているところはあって、そのために参加条件として斎藤幸平氏のあげた記事を読んでもらっていた。日本人には、それまでの自分の臆見を捨てて大きく変わるような「学び捨て」の態度が足らないという趣旨が書かれてある。環境や政治的、経済的状況という外部の情報よりも、自分ごととして意識に降りかかるものを扱い合えないか、という思いだったが、なかなかそこは難しいなと感じた。そもそも自らつけたタイトルは外向きの視点なのだから、これはもう自分に責任がある。

参加者の中には、実際に再生エネルギーの事業に携わった人もいたのだが、自説を押し付けるのではなく、考える材料として話題を投げ込んでくれた。

予定時間を過ぎてからも雑談のようなのが続いて、その中で70年代頃のエネルギー問題の話が出た。あの頃の計算では石油は今頃とうに枯渇しているはずだったのだ。

映画の話は出なかったが、近未来のディストピア作品の変遷を考えると、その当時の問題意識みたいなものが垣間見える。

先の70年代頃のは、ほんとに怖かった。「ソイレント・グリーン」「赤ちゃんよ永遠に」とか。子供心にちょっとしたトラウマになったんじゃなかろうか。それが80年代近くになってくると、マッドマックスみたいにノーテンキなドタバタに変わってくる。何もなくなった荒廃した世界で、何でモヒカン野郎が大量のガソリンを消費しながらバイクを乗り回してるのか?なんなら、その髪の毛のポマードさえ、どこにも売ってねえぞ!とツッコんではいけなくなってしまったのだ。

最近は再び環境悪化を厳しく描くようになりつつ、テーマはその中でより両極化していく格差みたいなものになりがちなのだな。

映画会社は人々の見たくなるものを知っている。むしろ、人々の見たいものを、先回りして作っているとも言える。一見良心的な素振りをしたものこそ、大企業が喧伝するSDGsのように警戒すべき相手ではあるのだろう。

 

 

 

 

 

 

今日の哲学カフェ 人と自然

昨日は、困った人(自分のことは棚に上げてる)が来たことがない、ありがたい哲学カフェが今年最後の会。

テーマの広さのため、大木の如く枝と根が広がってしまう。

印象に残ったのは、創世記において神から人に託されたのは、自然への管理であり支配ではないということ。

管理と支配、どう違うんだ?

マンションの管理人とホテルの支配人では確かに違う。管理人ー地球に住み込みながら、住人(生態系)サービスをおこなうのが、旧約聖書でのあるべき人間ということか。だが、実際のところ人は地球ホテルで、他の存在からの搾取を続け、管理職として高収入を得ている。

自然を天地と呼んだ、昔の東アジアだが、大陸と日本では随分と違いもあらわれた。

「手に届いて操作可能な地」と「操作不可能だが予測がある程度可能な天」というのが、東洋の基本的な自然感ではあるが、日本では地において、地震や噴火など予測も操作できないことが多すぎる。意識下で増大する自然への畏れは、その分だけ特異な世俗性を押し上げてきたのではないか。

自然と共存するという考え方自体が、人と自然の対立構造に浸りきった結果なのは確かだが、そこから抜き出ることはもはや不可能だ。有史以来戻ったことはない。前進を止めてきた人たちはたくさんいる。彼らに対する評価を、環境保護の活動家から聞くことは稀だが、これは今日の経済の問題とつながるので措く。(たまたま今夜はその話へと挑むことになる)

 

 

 

 

 

あるある 参加者のポジション

前回あげた哲学カフェでは、二人の参加者に少し触れた。

テーマの本流に、理論的に終始あがらった人。自らの心情をよく語った人。この二人がいて、おもしろいものとなった。もちろん、それは二人がいなかったらおもしろくならなかったという意味ではない。たまたま、今回では二人の投げかけが軸となって、他の参加者の話も回転していたからだ。

二人は対照的に見えて共通している点がある。

1,一般的な知識も、個人的な感情の発生という事実も、思考の素材として投げ入れられることを了解できる。

2,テーマへの追求に思弁的な努力を重ねあえる。

実際のところ、「距離ではなく力」と言い続けた人が、本気でそう確信していたかどうかわかる由はない。特にその人は哲学カフェのプロみたいな人なので、意識的にポジションを取っていたようでもある。参加者が考えるきっかけを振るい起こすには、そういう存在というか方法があったほうがうまくいく。

哲学は問いの連続で、対話中は疑問、質問こそが大事という。しかし必ずしも疑問形で終わる意見でなくとも良い。一般的な知識も異論も反論も心情の吐露も、問いと同じく「投げかけ」である。問いになりうるかは、実は他の参加者にかかっている。

バレーボールに例えると、強烈なスパイクもあれば、的確なレシーブのようなものもある。しかし、すべては自陣へ飛んできたボールなのだ。思わず手が出るようなボール、手を出したいがまともに触れられるのか逡巡するような変化球、沈思黙考を強いるようなスローボール、それらが行き合うことで立ちのぼるのは、ボール(テーマ)の新たな見え方と、自分の姿も映り込んだ、今を生きる人間の有り様に他ならない。

今日の哲学カフェ(コミュニケーションでの)距離感

テーマから考える会。雑談のような話から取り上げられ決まる。自分には初めて出会うテーマだ。

 

何故、私たちは他人との関係を距離で表すのだろうか?単なる比喩に過ぎないと言えばそれまでだが、誰もが共有できる比喩になるには、文字通り「体感」させる理由が何かあるとも言える。

おおかたの参加者が、他人との距離の伸縮の説明に終始する中で、体感の仕方自体が違う人がいた。距離ではなく(重)力だと。引く力の釣り合いみたいなものを、距離感と呼んでいないかと?

なるほど我々は他者との間に、力の均衡や不均衡を感じ取りながら生きている。もちろんそれも比喩である。両者の力が存在するなら距離もそこにあって当然である。目に見えない意識現象に対して、人が目に見える事象を割り当てるのは、言葉での説明というどこまでも不完全な行為を、なるだけ良きものにしたいという願いによるものだろう。

重力説を出した人にとっては、物理的な力そのものは目に見えない分、目に見える距離よりも、比喩として適正に感じられたのかもしれない。しかし、人が力の存在を確信するのは、視覚と同じく身体の知覚によるものである。であれば、いずれにせよ心理的な感覚への比喩というのは、身体の知覚に置き換えられたものということになる。

そんなことは調べれば本にも載っている当たり前の話ではあるが、そこにいる人がどんなときにどう感じるかを書いた本は当然無い。

たまたま、参加者の中には高校生がいた。自らに起きた悲しみを(おそらく)正直に明瞭に話していた。それが考えるための素材になることも了解している。哲学カフェ哲学対話では、それが重要なのだ。

 

ルールの問題 知識より経験?

「本で読んだ知識より自身の経験で話す」この意味は前回述べたこと以外にもある。そもそも本から得られる知識なら、本で読めばよいからだ。たとえオンラインであっても、生きた人間がわざわざ集まって話すのだから、その貴重な時間には、「そこでしか得られないもの」を求めあって当然ではある。

かといって、外から得た知識を絶対に使うな、というのではない。そんなことは無理である。経験の中にも無数の外部由来の知識が組み込まれている。人は他者によって出来ているのだ。

あるテーマをみんなで考えたいときに、必ず共有したいと思う予備知識がある時は言ったほうがよい。そのために知識を放り込むのは必要な作業である。

対話と同じ時間、書物と格闘したほうが得られるものも当然ある。そちらをしてる人かどうかは、たとえ自身の経験を話してもはっきり発言に現れるが、だからといって、そういう人が対話の場に少数でも必要不可欠かは考える余地がある。